二人の影舞(松岡弘子・青木麻由子)は、
何日も前から練習をしたり、
演出や衣装を考えたりした、
ものではなく・・
ちいさなちいさな、
ふちで仕切られた、
縁側のたたみ一畳を舞台に、
最初から最後まで、
ただ真剣にそこに身を置き、
まなざしのなか耳をすまし、
気を抜かず、
最期まで仕合った、
たった一度きりの影舞です。
影舞は、誰にでも即座に出来てしまう舞です。
それでは、
影舞とはいったいどのようなもの、
なのでしょうか・・。
坐・フェンス座長、橋本久仁彦氏の、
きくみるはなす縁坐影舞七番稽古に、
寄せられた言葉を、
ご紹介させていただきます。
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影舞は、誰にでもすぐできる舞いの形です。
特に、詩や歌曲などと共に舞うと、詩や歌詞の言葉の「形」がくっきりと
際立ち、聞き慣れて当たり前に知っていた曲が
この曲ってこんな歌だったのか、と時には涙になるような
感動をもたらすことがあります。
我々が学校などで習った様式では、詩や楽曲をよく聞いて、
歌の心を踊り手が身体で表現することが求められました。
その場合は、踊り手や振付家が詩歌の意味を解釈して所作をおこないますので
「踊り手の」あるいは「振付家の」自己表現であると言って良いでしょう。
影舞では、舞い手は楽曲をほとんど聞いていませんので、歌の心を
表現する意図を持つことができません。
にもかかわらず、影舞を見る人は、
詩歌そのものの心を普段より深く感じ取ることになります。
踊り手が曲を自分の解釈で踊ってしまうと、その「自分」が表に出て
詩歌が影になってしまいます。
影舞とは影間居(影の間に居ること)。
「自分を表現する」から退きあげていく稽古。
静まる(鎮まる)稽古。
「自分」という熱が冷めていく稽古。
舞い手が無垢な在り方で、自分を踊らず、ただそこにいる(間居)と
元々の詩歌の言葉やニュアンスが自由になって向こうから立ち上がってくる。
会場のお客様から直接頂いた言葉の場合には、その方の言葉の背景(影)が
重厚な迫力を持って湧き上がることもあります。
僕はこれを影舞現象と呼んでいて、とても面白いと感じています。
坐・フェンス はしもとくにひこ
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